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東京地方裁判所 昭和32年(刑わ)1368号 判決 1958年10月15日

被告人 水橋章吉 外一名

主文

被告人水橋章吉を罰金二万円に処する

右罰金を完納しないときは一日五百円の割合で換算したる期間被告人を労役場に留置する

訴訟費用中証人高木明に支給したものは被告人水橋章吉の負担とする

被告人富田栄に対する公訴は棄却する

理由

被告人水野章吉は東京都新宿区下落合三丁目一二三五番地に居住して居り、同三十二年一月二十五日肩書住居に移つたもので、予てよりグレートデン種リリー(牝生後五年)同ポピー(牝生後三年)の蓄犬二頭を所有していたところ、

第一、(一) 犬の所有者は毎年四月三十日迄に登録申請をなすべきに拘らず、右二頭の昭和三十一年度の登録につき、所定の期日迄に東京都新宿区長を経て東京都知事に対し登録申請をなさず

(二)(イ) 昭和三十一年六月二十四日右二頭につき獣医師鈴木芳行に狂犬病の予防注射を受けたが、同月末日迄に所轄淀橋保健所長より注射済票の交付を受けてこれを右二頭に着けなければならないのに拘らず、右の交付を受けず、これを着けず

(ロ) 同十一月三十日右二頭につき鈴木に狂犬病の予防注射を受けたが、同年十二月末日迄に注射済票の交付を受けず、これを着けず

第二、右蓄犬二頭はいづれも身長一米二〇糎位、体重十二貫位の巨躯にして一見しておそろしさを感ずる容姿である為邸外運動をさせる時は街上にて通行人殊に児童等に行き会い、その者等が畏怖し警戒の姿勢をとることもあり得るので、かゝる場合蓄犬は通行人の警戒的動作を自己に対する加害行為と感じ該通行人に対して先制的反撃行動に出でることも考えられるところであるが、該犬はいづれも巨大にして強力である為、かゝる突発時に、通行人に危害を加えないように制御するには、人の体力からして、一頭づつ運動せしむべく且該犬は下落合居住当時である昭和三十年五月二日頃外囲物を飛び越えて路上に出で、遊んでいた三歳の女児に咬傷を与えたことがあるので、右突発時に於いても通行人に咬傷を与えないような口輪をはめさせる等邸外運動には特に細心の注意を払うべきものである。然るに、被告人水橋は相被告人富田が養子宏の命により二頭を一度に運動せしめていることを黙認し、且口輪をなさしめずして漫然邸外運動を継続せしめて居り、更に同三十二年一月下旬より該犬は発情期にあるのでその取扱には特に注意すべきに拘らず両被告人はいづれもこれを怠つて居た為同年二月四日午後二時三十分頃富田が該犬二頭をつれて千代田区二番町八番地先路上に差しかかつた際偶々前方約十米の地点を反対方向より歩行して来た佐野麗子(当時九歳)外一名と出会つたが、約二米に接近したとき、佐野麗子が突然「こわい」と叫び両手にて顔面を覆つたのでリリーは突如同女に跳びかかり、ポピーも続いて跳びかかつたが、富田はこれを制御し得ず自らも転倒し引きづられた為、両犬は同女を転倒せしめ、咬み付いて引き廻し、因つて同女の前胸部両側上腕、頤部、右耳前部、後頭部に加療約二ヶ月を要する咬創等を負わせた

ものである。

証拠の標目(略)

弁護人の主張に対する判断

一、弁護人はグレートデン種の犬は本来愛玩犬、護身犬、番犬であり性質は温順であるのみならず本件リリーは訓練試験に合格しているから他人に危害を加える虞はなかつたものであると主張する。証人沢辺賢次郎の供述によれば一般的にはグレートデン種の犬は愛玩犬、護身犬、番犬とせられて居りその性質も温順であることが認められる。然るところ同証人が「犬は相手が警戒心を持つておるかどうかによつて警戒する、犬を嫌う人には警戒するが犬を好む人には尾を振つてついて来る」と供述する如く、犬は蓄犬であつても、動物としての本能を失うことはなく、自己防衛本能は極めて強いのである。何事もないときは温順な犬であつても、或事を自己に対する加害であると感ずれば、猛然としてこれに反撃を加えるのであつて、しかも、その事たるや客観的に加害行為と見られるものであることを要しないのである。本件に於いては被害者佐野麗子が「こわい」と叫んで手で顔を覆つたことを犬は加害行為と感じたものと解すべきであるが、通行人が該犬の容姿、形態を見て恐怖することを不当となすべき何ものも存しないのである。所謂愛犬家といわれる人々は蓄犬を以つて「愛すべきもの」と前提し、人々にこれを義務付けんとする傾向にあるが、これは、人間に犬に対する寛容を求めるに止まるべきである。そも、現代は人間社会であり獣類はその構成員ではないのであるから、人間社会に仲間入りせんとする獣類は「愛されるもの」となるべきである。然し乍ら、獣類としては自ら愛されることえの努力修練はなし得ないのであるから、これを人間社会に仲間入りせしめんとする人々がその責任に於いて「受されるもの」となるよう万全の措置を講じなければならないのであつて、如何なる目的にもせよ人間に危害を加えることを慫慂する意図の下にこれを飼育するが如きは現代を認識しないも甚だしいといわなければならない。蓄犬に於ける訓練はこのことの為にこそ有意義であり、単に飼育者の好みを満足せしめるということに終つてはならないのである。而して、蓄犬に邸外運動をせしめねばならないことは現下の住宅事情からすれば已むを得ないところであるが、巨大にして見るからにおそろしさを感ぜしめるような蓄犬を邸外運動せしめるには、通行人の中にはこれを見て驚く人のあろうこと、その驚きが犬をして加害行為と感ぜしめるであろうことに思いをいたし、その際に処する万全の措置を講じておかなければならないのであつて、通行人に驚かないよう注意すべく求めることは許されないところである。

二、弁護人は本件犬は下落合では邸内に放し飼をし、子供とも遊び戯れていた程温順であり、人に危害を加えるものではなかつたと主張する。弁護人主張の事実は証人木下久次の供述並弁護人提出の写真によりこれを認め得るが、然らば児童である佐野麗子がたゞ「こわい」といつて両手で顔を覆つたことのみより同人に飛びかかり、富田をも引倒し、同人の必死の努力にもかかわらず制御し得なかつたことは如何なる事情によるものであろうか。人間社会に於いて理性の強い人々は自己に好意を持つ人であると否とを問わず、又仲間であると否とにかかわらず、何人にも同じ態度で接するが、理性の弱い人々は仲間に対しては処女の如き柔和さをもち乍ら未知の人殊に好ましからぬ人に対しては目を疑わしめるような暴挙をあえてすることがあるが、理性のない動物はその極点にあるといわなければならない。飼育者に対しては従順なること猫の如き蓄犬であつても、それは本来動物であり、強い自衛本能を蔵していることを忘却し得ないのである。

三、弁護人は被告人は飼育係として相被告人富田栄を雇つて本件犬の飼育に当らせたものであるが、富田の学歴、職歴は犬の飼育上秀れて居り、その手腕も良かつたから、被告人としては十分注意をしていたものであると主張する。然し乍ら後段に説明するように、富田は雑役夫として雇つたもので、その雑役の中に犬の世話が含まれていたと認むべきであるから、犬の世話が雑役の大部分であつたとしても、これをもつて獣医師たる富田栄を犬の飼育係として雇入れたとはいい得ないのである。従つて、富田を雇入れたことからして、被告人が犬の飼育について万全の措置を講じたものとは認め難いのである。

法律の適用

被告人の判示所為中第一の(一)の点は各狂犬予防法四条一項二七条一号同法施行規則三条一項罰金等臨時措置法二条一項に、第一の(二)の点は各同法五条三項二七条一号同法施行規則一一条一項右措置法二条一項に、第二の点は刑法二〇九条一項、右措置法二条一項三条一項一号に該当するところ以上は刑法四五条前段の併合罪であるから第二につき罰金刑を選択し、刑法四八条二項に従いその合算額内で被告人を罰金二万円に処し、一八条により罰金不完納の場合の労役場留置期間を定め、主文掲記の訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項に則り被告人をして負担せしめる。

被告人富田栄に対する公訴事実は、判示の如き過失は、被告人が「犬の飼育訓練係として雇われ、これが飼育及び訓練の業務に従事していた」ときのことであるから、業務上の過失責任があるというにある。然し乍ら、被告人の供述によれば、同人は犬の世話をも内容とする雑役として雇われたものと認むべきである。尤も被告人が獣医師の免許を得ていたことは農林省蓄産局長の回答書により認められるが、被告人並証人木下久次の供述によれば、被告人は水橋方に雇われたときは右免許を得ていたことを隠匿していたこと、木下が職業安定所に求人申込をなしたときは住込月給五千円の予定であつたが現実には住込月給四千円と取決めたこと、水橋は被告人に対し獣医師としての待遇をしていなかつたことが認められるから、被告人が該免許を得ていたとの一事からして飼育訓練係として雇われたものと認むることは出来ないのである。刑法二一一条にいわゆる業務とは人が社会上の地位に基き継続的に従事する事務にして、その性質上通例人の生命身体に対する危険を伴うものを指称すると解すべきところ、犬の世話をその一部とする雑役的労務に従事することは本質的には女中、下僕のなすことと選ぶところはなく、同法条の業務とはいい得ないのである。従つて、被告人の行為は同法二〇九条の通常過失に該当すべきであろうが、被告人と相被告人水橋とは刑事訴訟法二三八条一項の共犯者といい得ないところ、本件については告訴権者は水橋をのみ告訴し、被告人に対しては告訴をなさないのであるから刑事訴訟法三三八条四号に則り本件公訴を棄却すべきものとする。

仍て主文の如く判決する。

(裁判官 津田正良)

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